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ピーター・メイビア("High Chief" Peter Maivia、1937年4月6日 - 1982年6月13日)は、アメリカ領サモア出身のプロレスラー。本名はファネネ・ピタ・メイビア(Fanene Leifi Pita Maivia)。より原音に近い表記は「マイヴィア」。生年は1935年説もある。
かつてWWEで活躍した元プロレスラーの俳優、ドゥエイン "ザ・ロック" ジョンソンの祖父として知られる。下腹部から大腿部にかけて一面に彫られたサモア民族の入れ墨を "ハイ・チーフ" のシンボルとしていた。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] ニュージーランドのプロモーター兼レスラーであるスティーブ・リッカードのトレーニングを受け、1960年代初頭にプロレスラーとしてデビュー。 1964年、カンガルー・ケネディを破りNWAオーストラジアン・ヘビー級王座を獲得。ヨーロッパにも遠征し、1966年には悪役で出演した映画『007は二度死ぬ』の撮影で日本を訪れている[1]。 1968年よりハワイに進出し、ジム・ハーディーとのコンビでキング・カーティス・イヤウケア&リッパー・コリンズからNWAハワイ・タッグ王座を奪取。以降、同王座を4回に渡って獲得している[2]。同年11月、国際プロレスの第1回IWAワールド・シリーズに来日。予選リーグ戦で対戦したビル・ロビンソンとはリングを離れてもストリートファイトを演じた(ロビンソンは、この時にメイビアに目玉をくり抜かれて義眼になったとされる場合があるが、自著によると少年時代の怪我で片方の眼球を損傷していたという[3])。 1969年にアメリカ本土のサンフランシスコ地区に上陸し、レイ・スティーブンスのパートナーとなってNWA世界タッグ王座に載冠[4]。1971年7月31日には同地区の看板タイトルであるUSヘビー級王座をポール・デマルコから奪取している[5]。以降もハワイとサンフランシスコを主戦場として往復しつつ、南部のテキサス州ダラス地区にも進出。1975年10月にジョン・トロスを破りテキサス・ヘビー級王座を獲得した(メイビアの戴冠後、同王座は空位となり、新王者には後に娘婿となるロッキー・ジョンソンが認定された)[6]。1976年はミネソタのAWAに参戦、11月にニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[7]。 1977年、ニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。当初はサモアの王族ギミックのベビーフェイスとして、当時の悪党王者スーパースター・ビリー・グラハムと抗争。インディアン・ギミックのチーフ・ジェイ・ストロンボーとのチーフ・コンビも人気を呼んだ。1978年、ボブ・バックランドがグラハムを破り新王者になってからもバックランドの盟友として活躍していたが、同年11月、バックランドを裏切ってヒールに転向。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、MSG定期戦においてバックランドのWWFヘビー級王座に3カ月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる1979年1月22日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)[8]。 この間、1978年6月にWWFとの提携ルートで新日本プロレスに参戦し、10年ぶりの来日を果たす。7月24日には広島でヘイスタック・カルホーンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦。新日本にはバックランドとの抗争終結後の翌1979年4月にも来日し、MSGシリーズの第2回大会に出場したが、予選トーナメントで長州力に敗れ、決勝リーグ進出は果たせなかった。同年9月にはニュージーランドでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[9]、王座奪取はならなかったものの、流血の死闘を演じてレイスを追い込んでいる。 1980年代に入るとハワイでプロモーターとして活動。現役選手としても、1981年5月にロサンゼルス地区でビクター・リベラからアメリカス・ヘビー級王座を奪取し健在ぶりをアピールしたが[10]、1982年6月13日、ハワイ・ホノルル市内の病院で癌のため死去[11]。45歳没。2008年にはWWE Hall of Fameに迎えられ、孫のザ・ロックがインダクター(プレゼンター)を務めた。 得意技 [編集] ショルダークロー ドロップキック サモアン・ドロップ 獲得タイトル [編集] NWAオーストラジアン・ヘビー級王座:2回 NWAニュージーランド・ヘビー級王座:1回 NWAハワイ・ヘビー級王座:1回 NWAハワイ・タッグ王座:4回(w / ジム・ハーディー、ビリー・ホワイト・ウルフ、サム・スティムボート×2) NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):2回 NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / レイ・スティーブンス、パット・パターソン) NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回 WWE Hall of Fame:2008年度 |
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バンバン・ビガロ(Bam Bam Bigelow)のリングネームで知られるスコット・ビガロー(Scott Charles Bigelow、1961年9月1日 - 2007年1月19日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州アッシュブリー出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 エピソード 3 獲得タイトル 4 得意技 5 関連項目 6 外部リンク 来歴 [編集] プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て、1985年12月に「クラッシャー・ユーコフ(Crusher Yurkof)」のリングネームでデビュー。1987年1月、アントニオ猪木の新たなライバルとして新日本プロレスに初来日。当初はモンスター・ファクトリーの主宰者である元プロレスラーのラリー・シャープをマネージャーとして帯同していた。 スキンヘッドに刺青を入れ、炎をあしらった全身コスチュームで人気を集め、大柄な体型の割りに軽快な身のこなしで側転をするパフォーマンスで「動けるデブ」としてファンに認知された。ニックネームは「刺青獣」、アメリカでは「Beast from the East」と呼ばれた。 新日マット参戦中はクラッシャー・バンバン・ビガロのリングネームでビッグバン・ベイダーとタッグを組んで1992年3月にIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍したが、次第に引き立て役にまわった。その後、日本では全日本プロレス、WAR、FMW、アメリカではWWF(現・WWE)、ECW、WCWにも参戦した。 1987年のWWF初参戦時はベビーフェイスとしてハルク・ホーガンのタッグパートナーも務めている。1993年からの再登場の際は本来のヒールに戻り、テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションの主力としてブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと対戦。ECWではタズとの抗争、WCWでは同郷のダイヤモンド・ダラス・ペイジらとのユニット「Jersey Triad」などで活躍した。 1996年11月17日、U-JAPANのメインイベントでキモと総合格闘技ルールで対戦。「入れ墨対決」として話題を呼ぶが、ルールの違いなどもあり、本領発揮出来ずに敗れた(開始2分15秒、チョークスリーパーで一本負け)。 2000年7月に、火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助けた。その後遺症もあり40代を過ぎてからセミリタイア状態となり、弁当屋経営などに携わっていたが、2005年にバイク事故を起こし同乗の女性が意識不明の重体になるアクシデントに見舞われた。 2007年1月19日に、フロリダの自宅で45歳で死去。死因は公表されていないが、薬物の大量摂取による副作用と見られている(CNNなどより)。 エピソード [編集] 非常にプロレスが上手い選手として知られ、大して技術のない相手でもそれなりの試合を作り上げる実力があった。新日本においても北尾光司のデビュー戦、ソ連レスリング軍団の初戦の相手(vsサルマン・ハシミコフ)やトニー・ホームのプロレス転向初戦も務めている。WWFでもレッスルマニアXIのメインイベントで元NFLのスーパースター、ローレンス・テイラーを相手に試合を行う。本人も「俺はほうき相手でもプロレスができる」と豪語している。これはかつてミュージカルスターのフレッド・アステアが「帽子掛けとでも踊れる」と言われていたジョークのパロディと推測される。 WWFに参戦する際、参戦期間を3年と宣言した。同時に、WWF契約満了後にまた新日本に参戦したい旨を坂口征二に申し出たところ、2年契約をすると約束されたことを公表した。しかし、3年後にWWFを離脱した際には、事情は不明だが新日本への再来日は実現せず、WARに参戦することとなった。 ポール・ヘイマンは学生時代からの友人である。 低予算の刑事アクションシリーズ「コブラキラー」の三作目に、実に情けない死に方をする役で登場した。 『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナードラマ「仮面ノリダーV2」に「バンバンビガロ大佐」として出演。出演は第1話のみだが、主題歌にも敵組織「ゲロジョッカー」と並び名前が登場している。 2000年7月、火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助けた。 プロレス入り前は、懸賞のかかった指名手配犯を捕まえる賞金稼ぎを仕事としていた事があり、メキシコでは銃撃戦に巻き込まれ6ヵ月服役。 80年から82年まで、ジョージア州でアームレスリング王者となる。 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス IWGPタッグ王座 : 第18代王者(w / ビッグバン・ベイダー) WCW WCW世界タッグ王座 : 2回(w / ダイヤモンド・ダラス・ペイジ) WCWハードコア王座 ECW ECW世界ヘビー級王座 ECW・TV王座 WAR WAR認定世界6人タッグ王座 得意技 [編集] グリーティングス・フロム・アズベリーパーク(変形のリバース・パイルドライバー) ニュークリア・スプラッシュ ムーンサルトプレス ダイビング・ヘッドバット パワースラム |
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"バロン" マイケル・シクルナ("Baron" Mikel Scicluna、1929年7月29日 - 2010年3月20日)は、マルタ共和国出身のプロレスラー。元WWWF世界タッグ王者、WWE殿堂者。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] カナダに移住後、1950年代にオンタリオ州トロントにてデビュー(当時のトレーニング仲間にはワルドー・フォン・エリックらがいる)[2]。マイク・バレンティノ(Mike Valentino)をリングネームに、1960年代前半までカナダやNWAサンフランシスコ地区を主戦場に活動した。 1965年にニューヨークのWWWF(現在のWWE)に進出し、バロン・マイケル・シクルナ(Baron Mikel Scicluna)と改名。マルタ十字の施されたマントをまとった大型ヒールとして頭角を現し、1966年1月24日にマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に初挑戦、マルタ式背骨折りでサンマルチノを半失神に追い込んだ[3]。同年9月22日にはスマッシャー・スローンとのコンビでジョニー・バレンタイン&アントニオ・パリシーからWWWF USタッグ王座も奪取している[4]。 1967年11月には日本プロレスに初来日。日プロには1968年2月にも再来日している。同年はオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたWCW)にも遠征し、6月15日にシドニーでスパイロス・アリオンを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得した[5]。 1970年代に入ると再びWWWFに参戦し、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにキング・カーティス・イヤウケアと "キング&バロン" のタッグチームを結成。1972年2月1日、カール・ゴッチ&レネ・グレイの独仏コンビからWWWF世界タッグ王座を奪取し、第3代の王者チームとなった[6]。 王座陥落後の1972年6月には国際プロレスに来日。翌1973年3月と1974年8月には全日本プロレスに参戦している。1973年の来日時は『チャンピオン・カーニバル』の第1回大会に参加。トーナメント1回戦でサムソン・クツワダを下したが、2回戦でザ・デストロイヤーに敗退した。 以降もWWWF / WWFを主戦場に、1976年6月1日には、モハメド・アリがゴリラ・モンスーンに喧嘩を売ったアングルにおいてモンスーンのジョバーを務めている(アリは同月26日にアントニオ猪木との異種格闘技戦が決定しており、そのプロモーションとしてWWWFのリングに登場した)[7]。 1978年4月には当時のWWFの提携ルートで新日本プロレスに初参戦し、『MSGシリーズ』の第1回大会に出場。すでに体力的なピークを過ぎていたこともあり決勝リーグ進出は果たせなかったものの、予選トーナメント1回戦ではチーフ・ジェイ・ストロンボーとの本場MSGでの定番試合が実現している(このストロンボー戦に敗退後、敗者復活戦の1回戦でマーティン・ジョーンズ、2回戦で藤原喜明を破り勝ち進んだが、決勝リーグ進出を賭けた3回戦で坂口征二に敗れた)。 その後も中堅ヒールのポジションでWWFに定着し、ベテランのジョバーとして活動。1984年の現役引退後はWWFの重要拠点の一つだったペンシルベニア州フィラデルフィアに居住し、ニューヨーク・タイムズのトラック・ドライバーの職に就いた[2]。1996年にはWWF殿堂に迎えられている。 2010年3月20日、癌のため死去[2][8]。80歳没。 得意技 [編集] マルタ式バックブリーカー 変形のカナディアン・バックブリーカー。ブッチャー・バションやネイル・グアイらが得意としたハングマンズ・ホールド(ハングマンズ・ネックブリーカー)にも類似しており、相手の脇下から首の部分に両手を回し、自分の頭を相手の背中に押し付けるようにして担ぎ上げる怪力技である。ブルーノ・サンマルチノを半失神に追い込んだ1966年1月24日のMSG定期戦では、チョーク攻撃と見なされ反則負けを取られた[9]。 獲得タイトル [編集] WWE WWWF USタッグ王座:1回(w / スマッシャー・スローン)[4] WWWF世界タッグ王座:1回(w / キング・カーティス・イヤウケア)[6] WWF Hall of Fame:1996年度(プレゼンターはゴリラ・モンスーン) その他 NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / Gene Dubuque)[10] ※マイク・バレンティノ名義 IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回 [5] IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / サイクロン・ネグロ)[11] |
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バグジー・マグロー(Bugsy McGraw、1945年 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ノースカロライナ州シャーロット出身。本名はマイケル・デービス(Michael Davis)。現役選手時代は巨漢のラフ&パワーファイターとして活躍した。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 デビュー / 1970年代 1.2 1980年代 / 引退後 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] デビュー / 1970年代 [編集] 1960年代後半に黒人レスラーのトム・ジョーンズのトレーニングを受けてデビュー。五大湖エリアから南部のテキサスやフロリダ、さらにはニュージーランドなどNWAの各テリトリーを転戦し、リングネームを様々に変えてキャリアを積む。フロリダでは覆面を被り、マスクマンのザ・ビッグO(The Big "O")を名乗ったこともあった[1][2]。1972年3月にはマイティ・ブルータス(Mighty Brutus)の名前で日本プロレスに初来日している。 1973年からはザ・ブルート(The Brute)に改名してカナダのバンクーバー地区に参戦、3月にジン・キニスキーからNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を奪取した[3]。日本にもザ・ブルートとして1974年3月に国際プロレスに来日している。その後はアメリカ西海岸のサンフランシスコ地区に進出、1975年1月にはピーター・メイビアを破り同地区認定のUSヘビー級王座を獲得した[4]。 1975年の下期よりバグジー・マグロー(Bugsy McGraw)のリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに、同年9月6日にMSGでブルーノ・サンマルチノとも対戦した[5]。WWWFには中堅どころのヒールとして1977年まで参戦し、ゴリラ・モンスーン、ヘイスタック・カルホーン、チーフ・ジェイ・ストロンボーなどのトップスターと対戦。ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハムら大物ヒールのパートナーにも起用された。 このWWWF参戦でスキンヘッドの巨漢ヒールのイメージが浸透し、リングネームも「バグジー・マグロー」で定着(なお、"Bugsy" とは「ばい菌」「害虫」などを指す蔑称である)。1978年4月には新日本プロレスの第1回MSGシリーズに参加。予選トーナメント1回戦で山本小鉄、2回戦でトニー・ガレアを破り決勝リーグに進出し、アントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントと公式戦で対戦した。 1980年代 / 引退後 [編集] 1970年代末からはNWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハムが主宰するCWF)を主戦場に[6]、悪徳マネージャーのサー・オリバー・フンパーディンクのファミリーに加入。"バッド・バッド" レロイ・ブラウンとの巨漢コンビでダスティ・ローデスやジャック・ブリスコと流血戦を演じたが、1980年にフンパーディンクと仲間割れしてベビーフェイスに転向。アンコ型の巨体に禿頭の髭面という正義のヒーローには程遠い風貌ながら、そのコミカルで陽気なキャラクターが子供達に支持され、ローデスに次ぐ同地区の人気者となる。以降もフロリダに定着し、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、マサ・サイトー、ディック・スレーター、ザ・ファンクスらヒール勢と抗争を展開した。フロリダでは1981年3月5日と4月15日にハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、引き分けに持ち込んでいる[7]。 1981年5月にはジャック・ブリスコの斡旋で全日本プロレスに来日し、再びヒールターンしてザ・シークのタッグパートナーを務めた。帰国後もヒールのポジションでテネシー州メンフィスのCWAに登場[8]。ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやビル・ダンディーと対戦し、スティーブ・カーンとNWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を争った[9]。同年の末よりテキサス州ダラスのWCCWに参戦し、ザ・グレート・カブキを破ってNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取[10]。翌1982年には若手時代のキングコング・バンディをパートナーにNWAアメリカン・タッグ王座も獲得している[11]。また、1982年6月4日にテキサス・スタジアムで行われたフリッツ・フォン・エリック引退興行ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチが組まれた[12]。 その後はベビーフェイスに戻り、1983年もNWAの主要テリトリーを転戦。ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区ではルーファス・ジョーンズや "ブギウギ" ジミー・バリアントとタッグを組み、スターケードなどのビッグイベントにも出場した(バリアントとのタッグは、アメリカのプロレス業界誌『レスリング・オブザーバー』の「ワースト・タッグチーム」にも選ばれている)。 1984年3月には全日本プロレスに再来日。開幕戦でスタン・ハンセンの試合に乱入して喧嘩を売り、当時ハンセンが保持していたPWFヘビー級王座に挑戦するというアングルが組まれた。なお、ハンセンとマグローはジム・バーネット主宰のNWAジョージア地区でタッグを組んでおり、1983年のクリスマスにアトランタのオムニ・コロシアムにおいてロード・ウォリアーズと対戦したことがある[13]。 1984年夏からは古巣のフロリダに復帰し、ワフー・マクダニエルやブラックジャック・マリガンとのベテラン・コンビで活躍。1985年にはミッシング・リンクと抗争した他、アブドーラ・ザ・ブッチャー、テリー・ゴディ、リック・ルードなどと対戦している[6]。その後、WWFの全米進出が始まってNWAの各テリトリーが形骸化したこともあり、1980年代の後半に引退した。 引退後はセントラル・フロリダの医療機関で看護師の業務に就いている[1]。近年はフロリダで行われるオールドタイマーのリユニオン・イベントにも参加しており、2005年1月29日の『レッスル・リユニオン』にはグレッグ・バレンタイン、ジェイク・ロバーツ、チャボ・ゲレロ・シニアらと共にバトルロイヤルに出場した(当日はダスティ・ローデス、ハーリー・レイス、ザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロディ・パイパー、ジミー・スヌーカ、カウボーイ・ボブ・オートン、マスクド・スーパースターなども参加し、エキシビション・マッチを行っている)[14]。 2009年は、6月18日収録(7月2日放送)のTNA『iMPACT!』にミック・フォーリーのセキュリティとして登場した[15]。同年10月1日には、WWEの下部団体FCWのハウス・ショーにも顔を見せている。 得意技 [編集] エルボー・ドロップ ダイビング・ボディ・プレス ベアハッグ 獲得タイトル [編集] NWAオールスター・レスリング NWAカナディアン・タッグ王座:3回(w / マイク・ウェブスター、ジン・キニスキー、ミスターX) NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座:1回 NWAサンフランシスコ NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回 NWAトライステート NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回 NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ドクターX) NWAオーストラリア NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座:2回(w / ブッチャー・ブラニガン、マリオ・ミラノ) CWF NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回 NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ソー・ザ・ヴァイキング) NWAフロリダ・TV王座:3回 NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回 NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ダスティ・ローデス) CWA NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:1回 WCCW NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回 NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / キングコング・バンディ) NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / ビル・アーウィン) NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回 WCCW TV王座:1回 MACW NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ルーファス・ジョーンズ) |
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