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バーン・ガニア(Verne Gagne、本名:LaVerne Clarence Gagne、1923年5月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。AWAのオーナー兼プロモーターとしても活躍し、AWAの帝王と呼ばれた。息子のグレッグ・ガニアもプロレスラーである。
目次 [非表示] 1 来歴 2 日本との関係 3 獲得タイトル 4 得意技 5 育成選手 6 脚注 7 外部リンク 来歴 [編集] ハイスクール時代は、レスリングとアメリカンフットボールの選手として活躍。ミネソタ大学(University of Minnesota)に進学後、NCAAのレスリング王座を二度獲得。1948年にはフリースタイルのロンドンオリンピック代表に選ばれた。フットボール選手としても高く評価され、短期間だがNFLのグリーンベイ・パッカーズ所属の選手として活動した。 万能スポーツ選手としての華々しい実績から、NWAミネアポリス地区のプロモーターにスカウトされ鳴り物入りで1949年にプロレスデビュー。NWA世界ジュニアヘビー級王座、初代USヘビー級王座を獲得するなど活躍し、ルー・テーズなどと並ぶメインイベンターとなる。しかし政治的な待遇面でNWA会長のサム・マソニック派と衝突し、1960年5月にミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを離脱。ミネアポリスを本拠地とするAWAを創設した。 以降、AWA世界ヘビー級王座を通算10回獲得し長期間トップレスラーとして君臨。若き日のアンドレ・ザ・ジャイアント、マサ斎藤、ニック・ボックウィンクル等の強豪選手をAWA所属選手として招請し、短期間でNWAの対抗勢力にまで成長させプロモーターとしても大活躍。現役レスラーであったことなどからAWA会長にはならなかったものの実権を掌握し、AWAの帝王と呼ばれるようになる。また、リック・フレアーなど幾多の名レスラーをスカウト、育成したことでも有名である。 1981年1月18日にはジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場の保持するPWFヘビー級王座と自身の保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行い(3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛)、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれている。同年5月、AWA王座を保持したまま引退。団体経営に専念する。 しかし、レスリングの名選手だったガニアはレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が顕著で(悪役ですらマッドドッグ・バションやバロン・フォン・ラシクのように「レスリングの出来る」選手が重用された)、彼の引退後に台頭してきたハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズなどの派手なパワーファイターには懐疑的で彼らの商品価値を見誤り、1983年以降のWWF(現WWE)のプロモーション戦略に押され有力所属選手が次々と離脱。 NWAと連携するなどして勢力の回復に尽力するが、AWAの人気は凋落し1991年に崩壊[1]。AWA崩壊後の1993年、ガニアは自己破産した[2]。以降、ミネソタ州知事となったジェシー・ベンチュラの相談役として表に出たこともあったが、プロレス業界との関係を絶っていた。 2006年、WWE殿堂に迎えられ久々に公の場に姿を見せた。ガニアの場合はWWEの歴史上には「対立組織の総帥」としてしか登場しないが、WWWF設立以前のマディソン・スクエア・ガーデンの主役ではあった。彼の受賞をきっかけとしてWWEの歴史には登場しない他のNWA、AWA系の人物たちも続々と殿堂入りを果たしている。 2009年1月末、ミネソタ州の養護施設内で97歳(当時)の男性が転倒し、腰などを骨折。合併症で2月14日に死亡した。遺族は85歳(当時)のガニアがその男性を床に投げつけたとしたが、目撃者は不在で男性・ガニアとも認知症を患っており、ガニアは殺人罪には問われなかった[3]。 日本との関係 [編集] 1970年2月に国際プロレスに参戦するため初来日。同時に業務提携を結び、以降ブッカーとして多数の選手を来日させた。国際プロレスの吉原功社長と太いパイプで結ばれており、1974年11月にガニア、ニック、ビル・ロビンソン、レイ・スティーブンスのAWA四大スターを送り込んだ。またアンドレ・ザ・ジャイアントをはじめとして国際経由でAWA参戦を果たしたレスラーも存在する。ただし、ビジネスに関しては相当シビアだったと言われており、ブッキング手数料の負担に耐えかねたのが国際がAWAとの提携を解消した一因といわれている(ただしその後も、ガニアやニックが単発的に国際に参戦している)。 その後は全日本プロレスと業務提携を結び、1976年にはジャンボ鶴田試練の十番勝負第一戦でのジャンボ鶴田戦で全日本初登場。1981年には前記のジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場と対戦(当初ガニアは「3000?俺は倍ぐらいやっている」と言っていたが、デビュー以来の連続無欠場記録と聞いて「それは素晴らしい記録だ」と出場を快諾したという)。そのほかにも自身を破ってAWA世界ヘビー級王者となったニック・ボックウィンクルらを送り込んでいる。全日本との提携は1980年代後半まで続き、鶴田AWA奪取と日本人世界王者初の米国サーキット、ニックとハーリー・レイスの夢の世界王者コンビ、AWA王者リック・マーテルとNWA王者リック・フレアーのダブル世界戦など数々のドリームマッチを日本にもたらした。いっぽうガニアの方も日本マットを通じてロビンソンらの有力なレスラーをAWA圏に招聘できた。 AWA終焉間近となった1990年頃には新日本プロレスと提携し、王者ラリー・ズビスコを新日本に送り込んだ。1990年2月の新日本東京ドーム大会でマサ斎藤がズビスコを破って王者になっているが、斎藤は1980年代のAWAでミスター・サイト-と名乗ってヒールとして活躍していた。 獲得タイトル [編集] AWA世界ヘビー級王座 オマハ版世界ヘビー級王座(AWA世界ヘビー級王座に統一) AWA世界タッグ王座 NWA世界ジュニアヘビー級王座 IWA世界ヘビー級王座(国際プロレス版) WWE Hall of Fame(2006年度) 得意技 [編集] スリーパーホールド ドロップキック PR |
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ハーリー・レイス(Harley Leland Race、1943年4月11日 - )は、アメリカ合衆国ミズーリ州出身の元プロレスラー。ニックネームは「美獣」(Handsome)。通算8回に渡ってNWA世界ヘビー級王座を獲得し、日本ではNWAの象徴として「ミスター・プロレス」とも呼ばれた。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 2.1 やられ技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 関連項目 6 外部リンク 来歴 [編集] 高校・大学時代はレスリングの選手として活躍したという説もあるが、15歳の時に教師を殴って学校を追い出されたともいわれる。スタニスラウス・ズビスコのコーチを受け1964年にプロレスに転じた(キラー・バディ・オースティンのコーチを受け1960年デビュー説もあり。その際はジャック・ロングというリングネームでロング・ブラザーズの一員としてであった)。 その後、ドリー・ファンク・シニアに師事しテキサス州アマリロで修行し、ドリー&テリーのザ・ファンクスとともにトレーニングを積んでいる。デビュー戦の対戦相手はアメリカ武者修行中のアントニオ猪木であった。なお、デビュー当初は体重300kgの超巨漢レスラーであるハッピー・ハンフリーの弟を名乗っていたこともあるが、もちろん血縁関係はない。また長い間、レスリングキャリアのスタートを「サーカス団に所属するカーニバルレスラーからの転身」と言われ続けていた。 1965年1月、AWAでラリー・ヘニングとタッグを組み、"ハンサム" ハーリー・レイス(ラリー・ヘニングのニックネームはプリティーボーイで、1930年代のギャングたちの愛称にあやかった)としてAWA世界タッグ王座を獲得。以降、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーと同王座を巡る抗争劇を繰り広げた。 1968年2月に日本プロレスに初来日。この当時はファンク一家の一員として扱われていた。1969年12月2日、大阪府立体育会館においてアントニオ猪木がドリー・ファンク・ジュニアに挑戦したNWA世界ヘビー級選手権試合のVTRにドリーのセコンドを務めたレイスが登場している。なお、日本プロレス参戦時のレイスはまだ日本でのネームバリューが低かったこともあり、馬場・猪木とのタイトル戦の機会はなかった(1972年3月になって坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している)。 1973年5月、ドリーを破りNWA世界ヘビー級王座を初獲得。同年全日本プロレスに初参戦し、それ以降全日本の常連レスラーとなる。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、タイガー戸口らと戦いを繰り広げたほか、アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラス、ディック・マードックとも日本でNWA世界戦を行った。 1970年代を代表する選手であり、彼が通算8回に渡って腰に巻いたNWA王座ベルトは通称「レイス・モデル」と呼ばれる。またNWA世界王者としてWWWF王者のスーパースター・ビリー・グラハムやボブ・バックランドとのダブル・タイトルマッチも戦っている。全日本年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦には4回出場し、1984年にはAWA王座に幾度となく就いたニック・ボックウィンクルとの「夢の帝王コンビ」を実現させている。 現役末期の1986年からはWWF(現在のWWE)に移籍し、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦。以降、怪我で離脱する1989年まで在籍した。当時のWWFでは元NWA王者という肩書きは抹消され、代わりに王冠とケープを纏った「リングの王」というギミックの "キング" ハーリー・レイスを名乗った。これは「NWA王者8回」に触れずにレイスの格にふさわしい扱いをするためのギミックであると同時に、同じくキングを名乗ったジェリー・ローラーへのWWFからのあてつけでもあった(当時のローラーは、反WWFの急先鋒の1人だった)。 WWF退団をもって事実上引退し、WCWでマネージャーとしてベイダーやレックス・ルガーなどを担当した。交通事故により1995年に正式に引退した後は、ホームタウンのミズーリ州にプロレスラー養成所「WLW(ワールド・リーグ・レスリング)」を設立し後進の育成に尽力している。 日本の団体としてはNOAHがWLWと友好関係を築いており、NOAHのタイトルであるGHCの管理委員にも就いている。なお管理委員長だったジョー樋口の死去に伴い、2010年11月より管理委員長に就任。昨今では多くのNOAH所属日本人レスラーがレイスの元を訪れ、彼が育てている若手レスラーに指導をしている。 また、2005年に小橋建太が訪れた際には、レイスが所持するNWA世界ヘビー級ベルトを小橋に与え(後に返還)、「彼こそがミスター・プロレスだ」とこれ以上ない褒め言葉を投げかけた。レイス曰く「私は長らくプロレスを見てきたが、2004年7月10日に行われた東京ドーム大会の小橋vs秋山がベストバウトだ」。また、NOAHレスラーではレイス夫妻共々、丸藤正道がお気に入りであり、「日本の息子」と呼んでいる。 2004年には、それまでの功績を称えられてWWE殿堂入りを果たした。 自伝の日本語訳がエンターブレインから出版されており、表紙には「レイス・モデル」のベルトを誇示した王者時代の写真が使われている。 得意技 [編集] ダイビング・ヘッドバット パイルドライバー ブレーンバスター(バーティカル・スープレックスと呼ばれた) インディアン・デスロック(この技でテリー・ファンクからNWA世界王座を奪った) ニー・ドロップ やられ技 [編集] 馬場との対戦では、トップロープに登ったところをデッドリードライブで投げられるのがお約束だった。このムーブはリック・フレアーに受け継がれている。 獲得タイトル [編集] NWA世界ヘビー級王座:8回 AWA世界タッグ王座:3回(w / ラリー・ヘニング) ※1967年のヘニング負傷時はクリス・マルコフをパートナーに起用[1]。 PWFヘビー級王座:1回 UNヘビー級王座:1回 WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回 NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:9回 NWAミズーリ・ヘビー級王座:7回 NWAジョージア・ヘビー級王座:1回 NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回 NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回 NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回 NWAフロリダ・タッグ王座:3回(w / ロジャー・カービー×2、ボブ・ループ×1) WWCカリビアン・ヘビー級王座:1回 スタンピード北米ヘビー級王座:1回 WCW Hall of Fame:1994年度 WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはリック・フレアー) NWA Hall of Fame:2005年度 etc. |
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シャノン・ムーア(Shannon Brian Moore、1979年7月27日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。ノースカロライナ州キャメロン出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 備考 3 タイトル履歴 4 外部リンク 来歴 [編集] マット・ハーディーとジェフ・ハーディーの団体であったオメガ・レスリングの出身で、1995年4月8日プロレスデビューを果たす。 1999年にWCWへ所属し、クルーザー級戦線のレスラーの一人として活動した。 2001年のWCW崩壊後はWWF(現WWE)に移籍。引き続きクルーザー級のレスラーの一人として活動した。 2002年のWWEのテレビ番組分割時はスマックダウンに所属、そしてハーディー・ボーイズ解散後のマット・ハーディーの子分、つまりマッティテュード信者ギミックとして、ジョバーチームを結成して行動した。2004年にマットがロウに移籍すると共にチームは解散。そしてWWEでの活動機会が減りそのまま2005年7月5日に解雇になった。 解雇後はWWEとの契約の関係で90日間は他団体に出場することはできなかったが、2005年11月16日、TNAのダーク・マッチに登場。以降TNAを主戦場に活動を開始した。パンクキャラにギミックチェンジし、TNA Xディヴィジョン王座戦線のレスラーとして活動した。しかしながら王座獲得に至る前に2006年3月17日のWWEのダーク・マッチに出場し、ECWへの復帰が決まった。 ECW復帰後もパンクロッカー風のギミックは変わらず、「社会のクズ」というニックネームが付く。新参時代のCMパンクと抗争するも敗北する。確かな技術も備え、迫力のある風貌だが、試合では勝ち星に恵まれないジョバーである。 プロレスラー以外の活動として、ジェフ・ハーディーのバンドでドラムを担当している。 2007年には、社会のクズというギミックを終え迫力のある風貌から普通の風貌となった。 2008年8月にWWEにより解雇される。 備考 [編集] ハーディー兄弟とは幼少からの幼馴染で親友である。 ジョバーとして使われることが多く、くじ引きで挑戦者を決めるという企画にて「くじに書かれた名前がすべて彼である」という八百長企画が当時WWE王座保持者であったブロック・レスナー(2003年)、ジョン・レイフィールド(2004年)と二度もあった。 タトゥーマニアとしても知られ、体中の至る箇所にタトゥーを入れている。また自身のタトゥーショップを経営している。 タイトル履歴 [編集] WCW WCWハードコア王座 : 1回 OMEGA Pro Wrestling OMEGA Pro Wrestlingヘビー級王座 : 1回 OMEGA Pro Wrestlingライトヘビー級王座 : 2回 OMEGA Pro Wrestlingニューフロンティア王座 : 1回 HWA HWAクルーザー級王座 : 2回 HWAタッグ王座: 1回 NCW NCWヘビー級王座 : 1回 NCWライトヘビー級王座 : 1回 NCWタッグ王座 : 1回(&シェーン・ヘルムズ) SCW SCWライトヘビー級王座 : 1回 その他 ACW ライトヘビー級王座 : 1回 NFWAヘビー級王座 : 1回 |
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ジャック・エバンス(Jack Evans、男性、1982年4月2日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。AAA所属(元ROH所属)、カリフォルニア州ウエストミニスター出身。身長173cm、体重77kg。
経歴 [編集] 2000年10月22日PWFのタイガー・レディング戦にてデビュー。その後、テッド・ハートと意気投合し、様々なインディー団体を転々とする。 2004年5月に初来日を果たす。この当時はBBバンプなる覆面レスラーだった。 2005年12月23日、DRAGON GATEに初登場。ロドリック・ストロングと組んでB×Bハルク&スペル・シーサーと対戦。重力を感じさせない跳躍力と華麗なスピードでファンの心を掴む。 以降はDRAGON GATEに準レギュラーとして出場し、超国際派ユニットとして生まれ変わったBlood GenerationのメンバーとしてCIMA、ドン・フジイと行動する。 2006年8月20日にオープン・ザ・トライアングル・ゲート王座決定リーグ戦を制し、CIMA、B×Bハルクとオープン・ザ・トライアングル・ゲート王座を獲得する。 2007年2月に来日した際、自分の知らないところでBlood Generationが解散していたことを知り激怒。CIMAと仲違いし、さらにDRAGON GATEからの離脱も示唆していたが、3月の後楽園ホール大会でDr.マッスルに変装し、まさかのマッスル・アウトローズ入りをする。 しかし2か月後の5月11日の後楽園大会にてNEW HAZARDに助っ人と言う形で加入。 2010年10月にプロレスリング・ノアに初参戦し、第4回日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦にエクストリーム・タイガーと組んで出場した。 得意技 [編集] 世界最高峰とも称される空中殺法が持ち味。 630° / 630°セントーン / 630°スプラッシュ トップコーナーから前方1+3/4回転(計630度)してセントーンを放つ技。ジャックが最初に実用化に成功したとも言われ、世界各地で使い手が何人か現れた今なお安定度の面で他を寄せ付けない。場外へ飛んだり、スワンダイブ式やケージトップからも飛んだことがある。 不死鳥魂 / コークスクリュー630° 半捻りしてからの630°(フェニックススプラッシュから更に180度回転してセントーン)。滅多に使わない。来日してから不死鳥魂という名前をつけた。 オーデ・トゥ・ブリッツグリーク(Ode to Blitzkrieg) WCWで活躍していた飛び技を得意とするレスラー・ブリッツグリークに対するリスペクトがこめられた技。スタンディング・360°シューティングスタープレス→スタンディング・インフラレッド(スカイツイスタープレスから更に180度横回転してセントーン)のコンビネーション名。現在は使わない。 エバンス・ドライバー 腕を取ってハマーロックにした状態からのみちのくドライバーII。 スタンティン101(Stuntin' 101) 2回転式ムーンサルト。大抵はラ・ケブラーダの要領でトップロープを踏んで場外に飛ぶが、ケージトップから敢行したこともある。 カミカゼ・ダマシイ 逆さ押さえ込みをして、さらにその相手の上にブリッジをして押さえ込む。 シューティングスタープレス スカイツイスタープレス サスケスペシャル その他 [編集] CIMAとMID BREATH(DRAGON GATEの選手が通うジム)に訪れたとき、体を鍛えずにバック転の練習のみをして帰宅したらしい。 入場ではリング内でブレイクダンスのウィンドミルをするのが定番となっている。 DRAGON GATEでは初の外国人王者(オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座)である。 試合中に日本語で『イチバーン』『アイシテル、ニホン』『バカヤロー』などファンにアピールすることがある為、自身が親日家である事が伺える。 |
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ピーター・ポラコ(Peter Polaco、1973年10月16日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州出身。プロレスラーとしてのキャリアにおいてジャスティン・クレディブル(Justin Credible)のリングネームで知られる。現在のリングネームは「Just incredible(信じられない)」を捩ったもの。
来歴 [編集] カルガリーに渡りハート道場でスチュ・ハートらのトレーニングを受け1992年にデビュー。1994年にP.J. ウォーカー(P.J. Walker)のリングネームでWWFに登場し、後にポルトガル出身という設定のマスクマンであるアルド・モントーヤ(Aldo Mondoya)に変身したが目立った活躍はなかった。 1997年にECWに移籍しECW・世界ヘビー級王座を獲得するなどして存在感を示し、2001年、ECW崩壊後にWWEに登場し、Xパックのパートナーを務める。また、彼らにアルバート(現・ジャイアント・バーナード)も加わり、「Xファクター」を結成し、悪事の限りを尽くした。 しかし、Xファクター解散後は目立った活躍が無く、2003年1月に解雇。その後TNAに登場し、レイヴェン、サンドマン、ニュー・ジャック、ペリー・サターンといった元ECWのレスラー達とのチーム「エクストリーム・レボリューション」のメンバーとして活動するもこのユニットも短命に終わり、シングルプレイヤーとなったジャスティンはジェリー・リンとの長い抗争を始める。リンとの抗争に敗れた後は、しばらくあまり大きな舞台に立つ事は無かったが、2005年、ECW One Night Stand 2005で久々に姿を見せた。 その後ECWがWWEによって"復活"したことにより、2006年6月ECWに参戦。しかし、わずか3ヵ月後の9月に解雇されてしまう。 現在はフリーランスととして活躍している。 得意技 [編集] ザッツ・インクレディブル(ECWではツームストーン・パイルドライバー、WWEではDDT) スーパーキック |
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