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【2025/05/06 20:12 】 |
中之上靖文
中之上 靖文(なかのうえの やすふみ、男性、1986年6月14日 - )は、日本のプロレスラーである。本名は中上 靖文(なかうえ やすふみ)。大阪府箕面市出身。全日本プロレス所属。アニマル浜口ジム出身。
目次 [非表示]
1 経歴
2 得意技
3 人物
4 入場曲
5 脚注
6 関連人物
7 外部リンク
経歴 [編集]

アニマル浜口ジムを経て2008年1月27日に行われた武藤塾番外編の新人オーディションに合格[1]。また武藤敬司はその時の新人オーディションに対して「上から目線になってしまうけど、どうしても物足りなさを感じてしまう。」と不満を述べて「預かったからには誠心誠意、情熱をぶつけて未来のスターを生み出したいね。」と語っていた。またその時の3人の合格メンバーの中には全日の練習のキツさに耐えかねて退団、その後DRAGON GATEで1年ほど早くプロレスデビューした近野剣心(当時・近野健一)がいた[1]。
2008年4月に全日入団。他の同期メンバーが次々と辞めていく中で1人厳しい練習に耐える毎日を送る。しかしその3か月後に浜亮太が全日入団。大相撲出身という経歴と日本人最重量という超巨体を武器にすぐさまトップ戦線で活躍。そんな中、中上自身は長い間デビューを待つこととなる。
2009年12月13日、ファン感謝デーにて翌2010年1月2日に中之上靖文の名前でのデビューが発表された。入団から1年9か月後の2010年1月2日、近藤修司相手にデビュー戦を果たした。
得意技 [編集]

バックドロップ
エルボー各種
コーナーへの串刺し背面エルボーは、他の選手のものとは全く違う動きを見せる。ダッシュして、身体を時計回りに回転させながら放つため、相手としては攻撃の挙動を見切りにくい。
ブレーンバスター
首固め
付き人を務めている西村修の影響により使っている技。2010年の台湾興行で、バトルロイヤルとはいえ、師匠の西村をこれで退場に追い込んだ、中之上がレスラー人生初フォールを獲った技である。
人物 [編集]

周囲の先輩レスラーから可愛がられているようで、頻繁に先輩レスラーのブログに登場する。
なぜか周囲からは「永平寺」と呼ばれている。
学生時代には、野球に打ち込み『強打のファースト』として名を馳せていた。
入場曲 [編集]

God Knows(平野綾) この曲は木原文人リングアナが選んだ曲であり、涼宮ハルヒの憂鬱が好きだからではない(本人曰く)。
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【2010/12/28 19:35 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
BUSHI
BUSHI(ブシ、1983年4月5日 - )は、全日本プロレス所属の男性プロレスラーである。覆面レスラーであり、本名は清水 哲也(しみず てつや)、東京都足立区出身。身長172cm、体重83kg。リングネームの由来は、武士。憧れの選手はカズ・ハヤシ。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 新人時代
1.2 世代交代宣言〜海外修行
1.3 凱旋帰国
2 タイトル・受賞歴
3 得意技
4 入場曲
5 人物
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
経歴 [編集]

アニマル浜口ジムでトレーニングを積んだ後、『武藤塾』の新人オーディションに合格し入門。デビュー前からリング上でブレイクダンスを披露するなど注目されていた。入門後は武藤敬司の付き人をしていた。
新人時代 [編集]
2007年3月12日伊勢崎大会にて平井伸和戦で、T28(テツヤ)[1]のリングネームでデビュー。当時は、入場時に得意のブレイクダンスを披露した。試合衣装は、新人らしからぬシルバーのハーフパンツに、キャップを被った独特のスタイルであった。
同年5月シリーズでは、同期生の真田聖也とのシングルマッチでファイヤーバードスプラッシュを初披露し、シングル初勝利を飾った。
6月10日、「武藤祭」にて佐々木健介とのシングル対決が実現。
2008年2月、夏目ナナプロデュース興行「PLAYBOY CHANNEL NIGHT」で、KUSHIDAとのコンビで優勝。
その後、ジュニア・タッグリーグ戦に同タッグで出場が決定した。この際、コスチュームを白と緑の新しい物に変更した(風水的に良い色らしい)。リーグ戦ではカズ・ハヤシ&エル・サムライ組、同期生である大和ヒロシ&KAI組から勝利を奪い、デビュー時からの成長を見せた。
4月20日の後楽園ホール大会では、同門のKAIとのシングルマッチが実現した。結果は、KAIのスプラッシュプランチャでピンフォール負けを喫している。
6月22日、師匠カズ・ハヤシと組んで、留学生のアントニオ・トーマス、KAIとタッグで対戦。KAIは世界ジュニアヘビー級王者の土方から特殊な試合形式とはいえピンフォールを奪っており、やや先を越されていた感もあったが、この試合でファイヤーバードスプラッシュで勝利。ライバル心を剥き出しにした。
6月28日、シリーズ最終戦ではKAIにリベンジを許してしまうが、KAIと共に次期シリーズのジュニア・ヘビー級リーグ戦に向けてアピールした。
世代交代宣言〜海外修行 [編集]
ジュニアリーグでは初戦で憧れであるカズ・ハヤシと対戦し敗れる。しかしその後、フィル・アトラスと引き分け、先輩レスラーであるTAKEMURAを撃破するなど、優勝には手が届かなかったが、若手としてはなかなかの好成績を残した。
9月13日対土方隆司戦にて腰を負傷。このシリーズは休養している。
11月4日、復帰の見込みが立っていた頃に、無期限のメキシコ武者修行が発表された。これは、本人のたっての希望であり、「いま復帰しても上の上へ行くことはできない」というもの。
11月24日には、メキシコへ出発し、マスクマン「BUSHI」として活動。
メキシコマットではIWRGインターコンチネンタルライト級王座を2度獲得、最優秀外国人選手に選ばれるなど活躍。メインターコンチネンタルライト級王座を2回、最優秀外国人選手賞も受賞している。しかしマスカラ・コントラ・マスカラで破れて素顔を晒してしまい、帰国が決定した。
凱旋帰国 [編集]
2010年2月7日の後楽園大会での凱旋試合が決定。1年2ヶ月もの間マスクを被ってきたこだわりがあるため、全日本プロレスマットでもマスクマン「BUSHI」としての活動を継続していく事を発表した。
4月11日、チャンピオンカーニバル2010最終戦にてカズの持つ世界ジュニアのベルト挑戦が決定した。惜しくもタイトルマッチは破れてしまったが、次シリーズのジュニア・タッグリーグ戦ではスペル・クレイジーとのタッグで優勝。
タイトル・受賞歴 [編集]

2010ジュニア・タッグリーグ戦優勝(パートナーはスペル・クレイジー)
IWRGインターコンチネンタルライト級王座 …第2代、第6代
GLADIADOR DE ORO(IWRGの最優秀外国人賞)
PLAYBOY CHANNEL NIGHTタッグトーナメント優勝(パートナーはKUSHIDA)
得意技 [編集]

ファイヤーバードスプラッシュ
現在のフィニッシュ・ホールド。デビュー間もない頃から使用している。
レボルシオン
変形ショルダーバスター。2010年2月、後楽園ホールでの凱旋試合で初披露し、MAZADAをこの技で打ち破る。
三角飛び式エルボー・ドロップ
コーナーポストに三角飛び式で駆け登り、リングに背を向けた状態での背面式ダイビングエルボー・ドロップ。
各種エルボー
カナディアンデストロイヤー
ジュニア・ヘビー級リーグ戦の公式戦初日、カズ・ハヤシ戦にて初公開。
ヘッドシザースホイップ
ジュニア・ヘビー級リーグ戦の3戦目、この技で先輩TAKEMURAから勝利した。
ウラカン・ラナ
変形アンクルホールド
真田聖也との初シングル時に使用。かなりの威力を見せたが、「まだこの技をうまく使うには経験が足りない」との理由により、いまだ封印されているため、2度目の披露はまだ行われていない。
入場曲 [編集]

スコーピオン(オリエンタル・スペース)
人物 [編集]

マスクマンになる以前は、派手な空中殺法やパフォーマンス、そしてそのルックスで非常に女性ファンが多かった。バレンタインの時は他の仲間が羨む程だったらしい。
メキシコに出発する以前は全日本プロレス道場の寮長を勤めていた。
T28時代のブログは2008年8月26日に、更新回数1000回を記念して終了したが、9月11日には、名称を少し変更(以前のものに「!」をひとつ増やした)して復活した。そのブログもメキシコ修行を区切りに更新をストップしていたが、メキシコから帰って来てから「道〜BUSHI-DO〜」とのタイトルのブログを立ち上げている。
試合中に頭の一部を怪我して以来、その部分に髪の毛が生えなくなったためその部分にラインを入れてごまかしている。
漫画20世紀少年の大ファン。
一度なぜか桜塚やっくんと食事をしたことがあり、彼のブログにもそのことが取り上げられていた。
T28を名乗っていた時代、入場時はキャップを被って意気揚々と入場していた。試合中もキャップを外さず続けているが、相手の攻撃などによりはずされ、結局試合終了後には大概キャップは被っていない。
海外遠征の際に必要になるスペイン語は、既に海外修行を済ましている同期の大和ヒロシから教えてもらっている。
学生時代は髪を茶色に染めた長髪だった。
脚注 [編集]

^ 本人が自分の持ち物に「T28」と書いていたのをそのまま使った。
【2010/12/28 19:34 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
太陽ケア
太陽ケア(たいようケア、男性、1975年11月18日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はマウナケア・モスマン (Maunakea Mossman)。全日本プロレス所属。ハワイ州ホノルル出身。身長185cm、体重108kg。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 ジュニアヘビー級時代
1.2 ヘビー級転向〜「太陽ケア」に改名。
1.3 武藤敬司との出会い
1.4 RO&D、みんなの太陽から暗黒の太陽へ
1.5 悲願のCC制覇、三冠王座奪取
1.6 低迷〜GURENTAI結成
1.7 超党派軍
2 人物
3 得意技
4 タイトル歴
5 入場テーマ曲
来歴 [編集]

ジュニアヘビー級時代 [編集]
高校時代はレスリングやアメリカンフットボールで活躍。
1994年6月、ハワイ在住のロード・ブレアーズ(当時PWF会長)を介し、ハワイを訪れていたジャイアント馬場に直訴し、全日本プロレスに入門した。1994年11月26日、本名のマウナケア・モスマンとして三重・津市体育館での志賀賢太郎戦でデビュー。シングル初勝利は1995年1月24日の志賀賢太郎戦。
1996年7月7日にはロブ・ヴァン・ダムと組みアジアタッグ王座に初挑戦した。
1997年8月22日には後楽園ホールで世界ジュニアヘビー級王座に初挑戦し、小川良成を破り、初戴冠を果たした。
ヘビー級転向〜「太陽ケア」に改名。 [編集]
1998年6月にヘビー級転向を目指すため、王座を返上した。
8月22日から始まった恒例の試練の七番勝負では、プロレス四天王には勝利できなかったものの、ウルフ・ホークフィールド、ジャイアント・キマラ、ジョニー・スミスには勝利し3勝4敗の好成績を残す。だがこの時期マッチメイク権を手にしていた三沢光晴に「体はブヨブヨで、オフになると道場に残らずにハワイに帰ってしまう」と酷評され、そのためかトップクラスにはほとんど絡めない時期が続く。
2000年の選手大量離脱時には全日本プロレスに残留した。8月20日には公募によりリングネームを本名の「マウナケア・モスマン」から「太陽ケア」に変更した。
2001年1月14日、ジョニー・スミスと組んで川田利明&渕正信組と世界タッグ王座決定戦を行い、これに勝利して第43代王者となった。
武藤敬司との出会い [編集]
1月28日に東京ドームで行われたジャイアント馬場三回忌追悼興行で武藤敬司と頭髪をかけて初対決し、敗れはしたもののお互いに認め合った両者は2月18日に両国でBATTを結成した。
3月3日には史上最年少で天龍源一郎の持つ三冠ヘビー級王座に初挑戦した。
10月22日に武藤敬司とのタッグで世界タッグ王座を奪取、10月28日に福岡国際センターで行われた初のIWGPタッグ王座とのダブルタイトル戦で藤波辰爾&西村修組に勝利、史上初の同時戴冠タッグとなる。また、年末の恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝した。
2002年は小島聡とタッグを組み世界最強タッグ個人2連覇を達成するものの、右膝前十字靭帯断裂の重傷を負い、長期欠場を余儀なくされた。
RO&D、みんなの太陽から暗黒の太陽へ [編集]
2004年1月2日に復帰。また、TAKAみちのくからの勧誘を受け、外国人軍団RO&Dに参加。ヒールとなり、「みんなの太陽」から「暗黒の太陽」と呼ばれるようになった。
7月10日、プロレスリング・ノア東京ドーム大会に武藤敬司と組んで参戦し、三沢光晴・小川良成組と対戦。自らがフォールを奪われたものの、三沢と武藤の初対戦ばかりが注目される中で健闘を見せた。かつてケアを酷評した三沢も、そのレベルアップぶりを認めた。
2005年1月16日、大阪府立体育会館でジャマールと組んで、棚橋、吉江組と世界タッグ王座決定戦を行い勝利し、第51代王座となった。
2月5日、日本武道館で行われたジャイアント馬場七回忌追悼興行では、ジャイアント馬場に敬意を表してリングネームを本名の「マウナケア・モスマン」に戻した。
悲願のCC制覇、三冠王座奪取 [編集]
2006年、チャンピオン・カーニバル2006にて諏訪魔を破り悲願の初優勝。
その勢いのまま7月3日、大田区体育館で小島聡を倒し三冠ヘビー級王座の第34代王者となる。外国人選手としては史上5人目の三冠王座栄冠となる。また試合後川田利明を第一挑戦者に指名し、「川田さん、俺が王道だ」と宣言した。
8月27日、両国国技館で初めての川田超えを達成し初防衛。試合後川田から「王道がどうのこうの言ってるけど王道を語れるのは馬場さんだけだ。俺と一緒でお前なりの王道をリングで刻んでいけ。頼んだぞ」と語りかけた。
9月3日、札幌メディアパーク・スピカでCCでは引き分けた鈴木みのるとの防衛戦にて王者陥落。
低迷〜GURENTAI結成 [編集]
2007年1月4日、東京ドームで全日代表としてIWGPヘビー級王座に挑戦したが新日本プロレスの棚橋弘至に敗れた。
2月17日、両国大会で川田利明と世界タッグ王座を奪取。
7月29日、金沢大会で小島聡の椅子攻撃を食らい、2112部上顎骨歯槽骨骨折、上唇裂傷、11歯亜脱臼で全治1か月の重傷を負った。
8月26日、両国大会で世界タッグ王座戦に強行出場したが、敗れた。
2008年3月1日、両国大会で川田と組み武藤&新日本・棚橋と対戦したが、敗れた。この試合で首を負傷した。
3月12日、後楽園大会でジョー・ドーリングと組み小島&TARU組と対戦したが、この試合で再び首を強打してしまい敗れた。試合後にTARUがケアに対してVOODOO-MURDERS入りへの勧誘をした。
チャンピオン・カーニバル2008では全敗し、TARUから再三VMへの勧誘を受けていたが、4月20日の開幕戦に答えを出すと発言。試合では、得意のTKO34thでブードゥーマスクを下したが、試合後の武藤との握手は拒否。その後、TARUが歩み寄ったがそれも拒否し、突然出てきた鈴木みのる、東京愚連隊との共闘を選択。GURENTAIを結成した。テーマ曲もボニー・タイラーの「Holding Out for a Hero」に変更した(ただし今までの「T・K・O」のテーマも併用している)。このテーマ曲を変更したことについて同じGURENTAIの鈴木みのるは「ほら、ケアのやる気がテーマ曲にも現れているだろ」と感想を述べ、その後GURENTAIの鈴木みのる、高山善廣のテーマ曲も「Holding Out for a Hero」をバックにしてそれぞれのテーマ曲の節(鈴木の場合「風になれー」高山の場合「アーッ(掛声)」)を所々で取り入れる新アレンジのテーマ曲が登場した。
それから波に乗り、みのると共に武藤、ドーリングの持つ世界タッグ王座への挑戦を表明。その査定試合として元アジアタッグ王者の佐々木健介、中嶋勝彦の親子タッグと激突しこれに勝利。世界タッグ王座挑戦が決定した。
そして6月28日、王者組を下し見事世界タッグ王者に君臨。自身6度目の世界タッグ王座獲得となった。
超党派軍 [編集]
2008年8月、当時諏訪魔の保持していた三冠ヘビー級王座に挑戦するも、60分時間切れ引き分けで王座獲得ならず。その後は鈴木とのタッグで着実に世界タッグ王座を防衛し続けていたが、2009年7月5日、武藤敬司&河野真幸との防衛線で勝利するも、左月状骨の背側脱臼及び手根間靭帯断裂により休場。およそ半年後の最強タッグで復帰するも優勝を逃し、翌年2010年の、武藤敬司&船木誠勝に破れ王座を手放す。
その後は、鈴木が2010年チャンピオン・カーニバルを連覇したことによりGURENTAIが解散。ケアも本隊へと戻って活動していたが、浜亮太を下して三冠ヘビー級王者に返り咲いた鈴木の呼びかけにより、船木、曙らと超党派軍を結成。7月4日、曙とのハワイアンタッグで世界タッグ王座戴冠。
人物 [編集]

2000年の選手大量離脱以降、全日本プロレスでジャイアント馬場の王道プロレスを受け継いでいるレスラーは太陽ケアのほかには渕正信くらいしかいない。そのため、「最後の王道」「最後の王道継承者」と言うニックネームが付けられている。
ジャイアント馬場を非常に尊敬している。大量離脱時に全日本プロレスに残るか否かの決断は、離脱するメンバーも残留するメンバーも仲間であると非常に悩んだが、ジャイアント馬場のおかげで今の自分があるとして残留する道を選んだ。
2006年のチャンピオン・カーニバル初優勝時には、大量離脱後にともに苦難を乗り越えてきた渕正信と抱き合って喜びを爆発させた。また三冠奪取時にはRO&Dのメンバー全員で歓喜を爆発させTAKAみちのくはケアの晴れ姿に涙を流していた。
かつてコーチだった小川良成とは未だに連絡を取り合うほど大変仲が良い。
あまりクローズアップされることはないがアジアタッグ以外の全日本のタイトル全て獲得しており、獲得すれば史上初のグランドスラムを達成となる予定。さらに22歳で世界ジュニア王座、26歳で世界タッグ王者にどちらも史上最年少(当時)で輝いている。
現在までに世界タッグ王座を6度腰に巻いているが、そのいずれも異なるタッグパートナーでの戴冠である。また、3度制覇している世界最強タッグ決定リーグ戦についても同様である。
全日本の所属選手であるが日本には定住しておらず、他の外国人レスラー同様にオフシーズンはハワイの自宅に帰っている。日本語は話せるがコメントやマイクアピールもほとんど英語である。
得意技 [編集]

独特の間と緩急の差をつけたキレのある動きが特徴。ヘビー級に転向してからは、ジュニア時代から得意としていた鋭い蹴りや華麗な飛び技に加えて力強さやエグさを兼ね備える技も使用出した。
TKO(ティー・ケー・オー)"太陽ケアオリジナル"
ファイヤーマンズキャリーの要領で担いだ相手の足を跳ね上げ自分の前、もしくは横サイドにみちのくドライバーIIのように開脚ジャンプした自身の股の間に落としていく。ハリケーンドライバーとほぼ同型。以前はメインのフィニッシュムーブだったが、後述のTKO34thの開発により使用回数がやや減っている。
TKO34th(ティー・ケー・オー・サーティーフォー・ス)"太陽ケアオリジナル (第)34代三冠王者(仕様)"
2006年に川田との三冠ヘビー級王座防衛戦に向けてTKOを発展させた。肩に担いだ相手の足を跳ね上げ、相手の頭を抱え込みながらエメラルド・フロウジョンのように横サイドに落としていく。現在のところ最上位フィニッシュムーブ。
ハワイアン・スマッシャー
ファイヤーマンズキャリーの要領で相手を担ぎ上げ、その状態からダイヤモンド・カッターを決める技。マーク・メロのTKO(ただし太陽ケアが使用する同名技とは形式が異なる)と同型。以前はフィニッシュムーブだったものの、最近はほとんどピンフォールが取れない。以前はハワイアン・クラッシャーという名前だったが、本人がインタビューでその名称は誤使用であることを指摘した。また、開発当初はスタナーの形で決めていたが尾骶骨を骨折したことがあり徐々にダイヤモンド・カッターの形に変更されていった。
H5O(ハワイアン・ファイブ・アウト)
アルゼンチン・バックブリーカーの要領で担ぎ上げた状態から、ダイヤモンド・カッターを掛ける。リバース式のハワイアンスマッシャー。中西学のヘラクレスカッターとほぼ同じ型。三冠ヘビー級王座を獲る決め手にもなった。
波乗りスープレックス
コブラクラッチから後ろに投げるスープレックス技。ジョニー・エースのコブラクラッチ・スープレックスと同じ技で、彼から受け継いだ。
シットダウン・パワーボム
相手を持ち上げてから少しタメを作って落とす。
サンケアキック
左ミドルキック→右ローキック→延髄への左ジャンピングヒールキックからなるコンビネーションキック。相手を3度蹴ることから、数字の3と太陽(SUN)ケアを掛けて命名した。
ゼロ戦キック
若手時代の得意技。
ランニング・ニー・バット
RO&D加入初期のフィニッシュムーブ。ニーブレス(怪我した膝を防護するための防具)を着けた膝で相手の顔面を蹴り込む。ニープレスには細工をしていたとも言われていた。
ラリアット
相手を対角線に振っておいての串刺しジャンピング・エルボーから流れるようにロープに走り込み仕掛けるムーブが特徴的。尻餅状態の相手にロープの反動を利用して浴びせ倒すように放ったこともある。
ハリケーンスパイク
勢いよく相手に飛びついてから決めるスウィング式DDT。若手時代のフィニッシュムーブ。
ハリケーンクランチ
バックドロップの要領で相手を担ぎ上げ、相手の体を離すと同時に自分の体を反転させ、相手の胴を片腕で抱え込んで、そのままマットへ倒れこみ、相手を背面からマットへ叩き付ける。最近ではほとんど使用しない。
スクールボーイ(横入り回転エビ固め)
ケアの丸め込み技のひとつ。この技で健介に勝利したこともある。
フランケンシュタイナー
ジャンプし相手の頭に足を挟み一回転し丸め込む技。雪崩式も仕様する。最近は雪崩式の際にR・O・D・ブイヤーと叫んでから放つ。
タイガースクリュー
腕へのドラゴンスクリュー。
タイトル歴 [編集]

全日本プロレス
三冠ヘビー級王座 : 1回(第34代)
世界タッグ王座 : 7回(第43・45・47・51・52・55・57代)
パートナーはジョニー・スミス→武藤敬司→小島聡→ジャマール→川田利明→鈴木みのる→曙。
世界ジュニアヘビー級王座 : 1回(第18代)
ヘビー級転向のため返上。
新日本プロレス
IWGPタッグ王座 : 1回(第42代)
パートナーは武藤敬司。武藤敬司の新日本プロレス退団により返上
その他
HCWケカウリキ・タッグ王座
パートナーはジャマール
プロレス大賞
2008年度最優秀タッグチーム賞(&鈴木みのる)
入場テーマ曲 [編集]

Like Like Hwy(Pacific Coast Jam、作曲:角松敏生)
SUN(鈴木修)
Rainbow
TKO
HOLD OUT SUN(鈴木修)
Sleep Now in the Fire(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)
【2010/12/28 19:34 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
曹駿
曹駿(そう しゅん、男性、1990年8月6日 - )は、日本のプロレスラーである。本名は曹駿(ツァオ ジュン)。中国上海市出身。全日本プロレス所属。全日本、新日本、ノアのいわゆるメジャー3団体の中では初の中国人レスラーとなる[1]。
目次 [非表示]
1 経歴
2 得意技
3 人物
4 入場曲
5 関連人物
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

父親が横浜中華街で仕事をしていた関係で、2001年に来日。中学、高校で6年間柔道部に所属し、初段を取得。神奈川・武相高等学校3年時には団体戦で県大会3位の成績を残した。中学時代にプロレスを観戦し武藤敬司に憧れを抱く。
2009年6月に武藤率いる全日本プロレス入団。武藤からは「体も大きいし日本語も堪能。しっかり教えて『中国の力道山』のようなレスラーに育てたい」と大きな期待を寄せ、トレーナーのカズ・ハヤシからは「体の割にシャープに動ける。身体能力はあるので、努力次第では1年以内のデビューも可能だと思う」と評価されていた。
2010年4月19日、約10ヵ月の練習生期間を経て横浜赤レンガ倉庫1号館にて、同じく大型レスラーの河野真幸を相手にデビュー戦を行った。(結果は逆エビ固めで敗北)
5月16日、同年にデビューした先輩の中之上靖文とシングルで対戦。結果デビュー1ヶ月弱で初勝利をもぎ取った。
得意技 [編集]

スピンキック
チャイニーズドロップ
正拳突き
人物 [編集]

先輩の真田聖也と仲が良いようで真田のブログにたまに取り上げられる。また彼からは「ニーハオ」と呼ばれている。
腕に入れ墨を入れている。
入場曲 [編集]

sousyun
【2010/12/28 19:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
征矢学
征矢 学(そや まなぶ、1984年12月23日 - )は、全日本プロレス所属のプロレスラーである。長野県上伊那郡箕輪町出身。身長180cm、体重108kg。坂口道場出身。弟は全日本プロレス練習生の征矢匠。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 無我ワールド
1.2 全日本プロレス
1.3 前座からの脱却
1.4 長州への弟子入り、新世代として
2 ファイトスタイル
3 得意技
4 タイトル歴
5 人物
6 入場曲
7 関連項目
8 外部リンク
経歴 [編集]

無我ワールド [編集]
坂口道場で体を鍛え、坂口征二の推薦で無我ワールド・プロレスリング(現:ドラディション)に入門。
2007年4月11日、無我ワールド後楽園大会で対竹村豪氏でデビュー。当時の無我生え抜き第1号であり周囲からは“藤波二世”と呼ばれていた。 10月18日の後楽園大会では吉江豊と組み、ZERO1-MAXの佐々木義人&崔領二組を相手に敗れはしたが、大健闘を魅せる。試合後吉江は『今日の征矢を見て無我の未来が見えた』と語っていた。
全日本プロレス [編集]
しかし翌日10月19日、師匠の西村修と共に全日本プロレスへ電撃移籍。11月23日の後楽園大会にて対近藤修司戦で全日本デビュー。
2008年1月2日の後楽園大会で駿河一との一戦で初勝利を挙げる。
全日本プロレスにTAKEMURAが襲撃してきた時は、相手を自分が努める事を強く望み、2月17日にシングルマッチが実現した。 が、一歩及ばず敗れてしまう。
4月頃からは諏訪魔のタッグパートナーとしてメイン、セミの試合に出場することが多く、デビュー当初の試合数の少なさをカバーされている。
4月7日、VOODOO-MURDERSとの8人タッグ戦にて、場外フェンスの扉の部分が勢いで自分に跳ね返り顔面を直撃。歯を3本失う。(現在はちゃんと歯を入れている。)
6月10日、武藤祭にてよくタッグを組む諏訪魔と、同じく若手の真田、T28と共に3人掛けマッチで対戦。3番手として戦い、奮闘するも三冠王者の壁は崩せず破れる。
6月22日、後楽園ホールで元WWE史上最年少世界タッグ王者でVMの新メンバーレネ・デュプリーとシングルでの対戦が決定したが完敗に終わる。
前座からの脱却 [編集]
秋頃からは武藤塾の援助の下、肉体改造に着手。新技開発のためトレーニングをしている。
11・3両国大会では、新技のパワプロブースターで真田聖也を下す。その試合後、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦に真田と出場することをアピール。真田にも呼びかけ、真田は呼応した。
最強タッグからはひげを蓄え、そのゴツゴツした肉体と同時にワイルドさを醸し出している。
最強タッグ最終戦のドーリング、ゾディアック組とは不戦勝に終わり、悔しさを露にした。そして真田と同様、ドーリング組との再戦を熱望。新春シャイニングシリーズの最終戦でタッグマッチが決定。 完敗を喫するも、これを期に上昇を誓った。
2009年、チャンピオンカーニバル出場を賭けて相棒の真田とシングルで対決するも敗北。しかしチャンピオンカーニバルの出場権を得られなかったことよりも、お互いが納得出来る試合内容ではなかったということで真田と共に大いに悔しがった。そのチャンピオンカーニバルでは相棒の真田を全面的にサポートしセコンドを買って出たが、カーニバルでは真田の全敗という結果に終わった。
5月17日、相棒の真田をパートナーにF4の大和ヒロシとKAIとタッグで対戦。若手同士の熱戦を展開し、最後は征矢の垂直落下式デスバレーボムで勝利。この試合を見た武藤敬司から「俺達には出来ないような可能性を見た。」と高評価を受けた。
8月22日に、西村修をパートナーにしてアジアタッグ王座に挑戦するが、NOSAWA論外に完敗。
長州への弟子入り、新世代として [編集]
8月30日両国大会では、以前から対長州力のパートナーとして懇願していた西村との思想の相違から仲間割れ。離別し、今度は長州イズムを学ぶかのような行動(長州力に弟子入り志願)を取り始め世界最強タッグリーグ戦も長州と組んで出場し、トータル8点という好成績を残す。
その後は新世代の一人として諏訪魔、河野、浜、そしてライバルの真田と共に切磋琢磨していたが、新世代のメンバーやジュニアのKAIや大和達若手が活躍していたのに対して実績を残せていないことに焦りを感じスランプに陥る。そして1月から海外修行に出ることを発表し、海外武者修行に出る。
2010年、7月25日に凱旋帰国し新世代軍に合流。かつての盟友真田とアジアタッグに挑戦することが決まった。
8月15日凱旋試合では西村修と対戦。鍛え抜かれた見事な肉体を披露し、パワーファイトで西村を攻め立てるも観客から「成長が見えないぞ」などと野次が飛び、最終的には西村が手を後ろに回して弟子のチョップを受け切るという展開に発展。最後は必殺のブレーンバスターで勝利を得て勝ち誇るも完全に師匠の胸を借りての勝利だった。
8月29日、両国大会でアジアタッグ王座奪取に成功。自身初となるベルト獲得となった。
ファイトスタイル [編集]

デビュー当初は柔道出身ならではの柔道技を前面に押し出すファイトを展開していたが、現在はそれに加えてがっしりした体格を駆使したパワーファイトを得意としている。
得意技 [編集]

膝十字固め
征矢の代表的な技。なかなか決まり手になることは少ないものの、得意技であることに変わりは無く、ほとんどの試合で頻繁に出しては相手を苦しめている。
ラリアット
デビューしたてから使っていたが、長州力への対抗心からか、2009年8月頃から頻繁に使い始める。それを師匠である西村に咎められても使い続け、現在の征矢を象徴する技となっている。
ワイルドスクラップ
カナディアンバスター(仮)
相手をカナディアンバックブリーカーの体勢で抱え上げ、自分の両膝をマットに勢い良くつくことによって、相手の背骨から腰を自分の肩に打ち付ける。2010年8月シリーズからの凱旋シリーズでいずれも初公開。また、ワイルドスクラップは相手を担ぎ上げ、両膝を打ち付ける前に旋回する。
サソリ固め
2010年海外修行凱旋から、長州を意識し始めてか使い出す。esでのタッグ戦では、真田のコブラツイストとの共演をすることも。
パワーブースター
相手の片腕を股から足ごと抱えて投げるクラッチ式のバックドロップ。武藤塾の協力の元の真技であり、2008年10月25日初披露。時期的に彼のプロレスデビューから1年半、そして全日本プロレス移籍から1年が経過しており、この技を披露したことによって征矢のプロレスラーとしてのひとまずの成長を見せ付ける形となった。名前の由来は、江崎グリコ(武藤塾協賛)のプロテイン製品から来ている。が、その後の公式名称は「パワーブースター」で統一されているため、この項ではそちらを記載する。
ブレンバスター
ぶっこ抜きブレーンバスター
非常に使いどころをわかっており、良いタイミングで使われる。真田と組んでのタッグマッチの時には、これで持ち上げたところを真田のスワンダイブ式ミサイルキックで撃墜するという合体技が存在する。ジョー・ドーリング等の巨漢選手をもぶっこ抜いたことがある。週刊プロレスの選手名鑑でも、ぶっこぬきと書くあたりこだわりが強い。通称、「こだわりのぶっこ抜きブレーンバスター」。垂直落下式のブレーンバスターで勝負を決めた場合、技の名称が「ブレンバスター」となる。
ブルドッキングヘッドロック
コーナーから繰り出す事もある。
垂直落下式デスバレーボム(パーフェクトデスバレーボム)
征矢の現在の最上級フィニッシュ。
この技でKAI、真田から勝利を奪い、TARUからアジアタッグを奪取した。週刊誌などの媒体によっては、「パーフェクト~」と表記される。
トルネードボム
タイトル歴 [編集]

アジアタッグ王座…第84代(パートナーは真田聖也)
人物 [編集]

漫画キン肉マンの大ファンで、フィギュアも収集している。
ほぼ同期である真田とのシングルマッチは敗北が続き、KAIとは引き分けとなっている。特に同じくヘビー級で先輩レスラーを次々撃破している真田に対しては非常にライバル心を燃やしている。
趣味は絵を描くこと。小学校の頃は「木彫りクラブ」、「美術クラブ」、そして破棄するテレビを壊すという「ぶんかいクラブ」という謎めいたクラブに入っていたという。
かつて放送されていたドラマ「斉藤さん」にほんの少し出演した。
社長である武藤敬司と同じ12月23日生まれである。
ブログ記事の閉めの言葉は「でわわ!!」である。(直接関係あるかどうかは不明だが他の全日レスラーがこれと同様に自身のブログにて記事の閉めに「ちわわ!!」などを発言したことがある。)
弟の匠は武藤塾番外編の2009年全日本プロレス公開新人入団テストで合格し、晴れて入団が決定した。
無我時代は青のショートタイツを着用していたが、全日本に移籍後は真田が青のショートタイツを着用しているため、全日本ではしばらく黒のショートタイツを着用していた。現在は黒とシルバーを基調としたコスチュームを着用している。
意外にもかなりの犬嫌い。小島聡が道場に愛犬のクッキーを連れてきた時はあまりの恐ろしさにキッチンの上に飛び乗った程。
入場曲 [編集]

前略、道の上より/一世風靡セピア
American Idiot/Green day(旧テーマ曲)
【2010/12/28 19:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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